大文字登山弁当

コンパクトで美味しく、見た目もノスタルジックな竹皮包みの登山弁当です。
青じそご飯と雑穀じゃこ飯のおむすび2個に梅干し、だし風味の唐揚げと京都産極濃卵を使った玉子焼きのシンプルな仕上げ。
登頂後に頂く弁当として、「丁度いい」内容と量のお弁当です。

包装に使う竹皮は、食事姿も「絵になる」、「映える」お弁当で、さらに食後には小さく丸めて持ち運びも容易になります。
掛け紙には、五山送り火の歴史等の情報を載せています。
エコ素材の包装袋は、食後にはごみ収集用に利用できます。

登山者は購入額の一部を寄付することにより、山の環境保全及び送り火の為の資金収集に貢献することに。
単に腹を満たすだけの弁当でなく、登山/食事する行為そのものが、環境保全、伝統行事の支援に繋がるのです。

名代おめんでは、弁当を製造/販売するだけでなく、大文字山の環境保全、五山送り火という伝統行事の継承に微力ながら尽力したいと考えており、定期的に参加者を募り、清掃登山を行っています。京都市内外の各種団体にも参加を呼びかけ、地域ごとに個性ある「登山弁当」で山の美化、伝統文化の支援活動に広げていきたい、と考えています。

山に登り、清掃活動を行い、美味しくお弁当を食べる喜びを多くの人と共有しませんか!


京都五山送り火について

毎年8月16日の夜8時より、京都の東山・北山・西山の三山に順次灯る文字や絵柄を総じて京都の夏の風物詩「京都五山送り火」と呼ばれています。

京都東山麓の六波羅蜜寺で古くから彼岸会の8月8日に本堂の五大灯明(とうみょう)が灯され御先祖の迎え火とされ、その後の8月16日にも灯されて送り火とされています。

また、六道珍皇寺8月8日頃から町衆が焔魔堂(えんまどう)の迎え鐘を引き、水塔婆(みずとうば)を供えて御先祖を迎えられます。
8月16日の盂蘭盆会(うらぼんえ)には東山の如意ヶ嶽(にょいがたけ)大文字山には大の文字が灯され、その後北山には妙・法の文字や船を模った船形が灯ります。
大北山に大の文字(左大文字)が灯り、最後に嵯峨野曼荼羅山(さがのまんだらやま)の鳥居形が灯り御精霊「御先祖」が西方浄土「冥府(めいふ)」に戻られる送り火が灯されているのです。
五山送り火の起源は様々な説がありますが、大和国「都」に仏教が伝来した頃からとも伝わっています。

大文字送り火


まず「大文字」の起源ですが、8世紀頃に空海「弘法大師」が如意ヶ嶽の中腹に五芒星(ごぼうせい)を見立てて、目印の石を置かれていた様ですが、14世紀に入り、足利八代将軍義政公の命により、相国寺の横川和尚と弟子の芳賀掃部が如意ヶ嶽に登り、荒れ果てていた山肌から五芒星の目印である石を見つけ、その意思を辿って白布張りの大の文字を模(かたど)ったようです。
夜には村人に松明の火を灯し、目印の石の上に立たせたようです。
16世紀には徳川家光らによって都の寺社仏閣が復興され、東山山荘の復興後は相国寺の搭頭、慈照寺とされ義政公を祀ると同時に彼岸会には灯籠を掲げました。
盂蘭盆会には如意ヶ嶽の中腹、現在の大文字山に近隣村民を手伝わせて、手松明に火を灯して立たせたようです。
その後は山の中腹に盛り土による火床を作り、その上に薪を井形に組ませて火を焚かせたものが現在に引き継がれていると考えています。
ただ、明治の廃藩置県や廃仏地尺によって、時代が変わり、大文字送り火も相国寺から近隣村民に引き継がれ、現在では京都だけでなく、ご先祖送りからこの世の全てに対して灯すようになっているのです。


松ヶ崎万燈山妙送り火


松ヶ崎大黒天山法送り火

松ヶ崎山に灯る「妙」の文字は、鎌倉末期の13世紀頃に法華経の日像上人の教化を聞いた天台宗歓喜寺の和尚はじめ村人が改宗した事によって、日像上人が松ヶ崎西山の万燈山に登り、描かれた文字が法華経の「妙」であったと伝わっています。
一方で叡山天台宗が全村改宗に怒り、僧兵をもって全村を焼き払ったのですが、その後村民は西山に登り、妙の文字に沿って松明を灯し、法華宗を鼓舞した事が現在に受け継がれているようです。
毎年送り火を終えると、現在の湧泉寺の境内で法華経の題目を唱えながら、踊りが興じられます。
そして「法」の文字といえば、約300年後の江戸期に日良上人によって、松ヶ崎東山の大黒天山に「法」の文字が描かれたようです。


船形萬灯篭送り火

船形萬灯籠送り火を継承されている西方寺の開祖は天台宗円仁「慈覚大師」が8世紀に中国長安に留学生として行かれていたのですが、その帰国時に乗船されていた船が嵐に遭い、念仏を唱えながら船縁に経符を貼られた事によって嵐が収まった。帰国後、西方寺の創建時に裏山「妙見山」に船形の絵柄を描かれた、と伝わっています。
江戸期に浄土宗(六斎念仏)に改宗され、現在では送り火を終えると、西方寺境内で檀家衆による六斎念仏踊りが興じられます。


左大文字送り火

「左大文字」の起源は定かではありませんが、旧衣笠村にあった廃寺を円仁によって法音寺として復興されたようです。
その後、江戸期になって浄土宗に改宗されていますが、送り火の灯明はこの法音寺の灯明台から受け、一抱えもある大松明に移し衣笠街道に篝火(かがりび)を焚いて、大松明を担ぎ上げられます。そして山頂にて、会員が持つ手松明で火床に点火されます。


鳥居形送り火

空海師が訪れるまでは死骸が遺棄されていた葬儀場でしたが、空海師が見かねて、千体の石仏と共に死骸を埋葬され、その上に寺を建てられ、万燈会の灯篭を挙げられていたようです。その時に鳥居本村の村民14名が共に灯篭を灯されていたようです。
その後、法然上人が念仏道場として使われ、現在の念仏寺として、彼岸会・盂蘭盆会には千体の石仏と共に万燈会を行っています。鳥居本の曼荼羅山では、14名の村民から始まった万燈会が地域の有志によって継承され、今では108基の鳥居形に模(かたど)った送り火が灯されています。
この様に、各山で行われていた「お火焚き祭(送り火)」は昭和38年頃に京都市の観光政策もあって、京都の伝統文化の一つである送り火行事も「京都の夏の風物詩」として五山連合会が発足されました。それぞれの保存会組織が、お寺の檀・信徒や、旧村民・地域の有志で継承している事から、各保存会は独立したものとして、点火実施の日時だけを統一して運営されています。組織があり、それぞれに独自の仕来りが継承されています。

これはたまたまであったのだろうか、東方といえば太陽が昇り、月もまた昇る。
そして、東山に人形(ひとがた)と思われる「大」の字が灯される。
そしてしばらくすると、北方の松ヶ崎山に「法華宗」の妙・法が灯されると、賀茂川を渡る為に帆柱に明かりを灯した船形が浮かび上がります。
この時刻になると東に灯っていた大の文字が小さく輝いています。
そして西の大北山に大の文字が浮かび上がり西方浄土への大鳥居「鳥居形松明」の火が灯るのを待っていると赤々と走り灯される松明が灯され鳥居形が浮かび上がり御精霊「御先祖」が無事西方浄土「冥府」へ向かわれる姿に手を合わせます。

五山送り火が終わると、大文字保存会では早くも翌年の送り火の準備が始まります。
11月の小麦の作付けの為の畑仕事です。それを終えると、赤松木の選定や伐採地の整備と植栽、植栽後の育樹作業等。
山の管理も送り火を継承すると同時に大切な仕事なのです。

(大文字保存会会長 長谷川英文氏 寄稿)